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福岡高等裁判所 平成3年(ネ)778号 判決

控訴人

石松義男

石松寛

内藤武

右三名訴訟代理人弁護士

沖田哲義

被控訴人

田中新一

右訴訟代理人弁護士

安部千春

主文

一  本件控訴を棄却する。

二  控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  控訴の趣旨

1  原判決中、控訴人ら敗訴部分を取り消す。

2  被控訴人の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二  控訴の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

当事者双方の事実主張は、次のとおり当審における控訴人らの請求原因に関する主張及びこれに対する被控訴人の認否、反論を付加するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人らの請求原因に関する主張)

一  本件不動産の所有関係について

1 江戸幕府の藩政時代には、徳重村では、他の村落と同様に大庄屋を中心として耕作地を所有し年貢を負担する高持百姓と、それ以外の自らは耕作地を所持しないで請負的な仕事をして生計を立てていた百姓が存在し、右高持百姓が一定の支出をしてため池を築造し、その維持管理をしたりしていた。そして、ため池の地盤は、徳重村の村民のものではなく、黒田藩の所持にかかるものが大半であり、墓地は当初から高持百姓の所持の下にあると観念されていた。したがって、藩政時代において、徳重村が本件不動産を所持していたということはない。

2 明治維新後、明治新政府によって行われた地券制度の導入や地租改正によって耕作地の所有権が高持百姓に認められていく過程で、本件ため池の所有権は、藩政時代から存在した井組又は怱と呼ばれる高持百姓の集団が黒田藩から承継した。このことは、地券制度導入から相当年数を経た明治一五年に、本件ため池の一つである佛租(佛祖の字も用いる。)のため池(原判決別紙物件目録①のため池)について修理が行われた際、同ため池から配水を受ける田を所持していた高持百姓が修理費を負担したことを示す記録が残っており、当時も藩政時代と同様に高持百姓の集団がため池を維持管理していたことからも推測される。

また、本件墓地については、藩政時代からこれを所持していた高持百姓に所有権が認められた。墓地の権利関係については、明治一八年ごろから墓籍帳が作成され、それが墓地取調簿に引き継がれ、その後旧土地台帳、登記簿へと順次引き継がれていったが、明治三二年に作成された墓地取調簿には、本件墓地は廃止墓地に区分され、その持主として石松三次郎、石松佐六、林榮次郎の三名の記載がある。この記載が旧土地台帳に引き継がれる際に、「大字徳重共有惣代」との肩書が付されたのは、本件墓地には右三名の一族以外の被葬者もあったことから、それが整理されて改葬されるまでは右の被葬者の祭祀に障害が生じないようにする配慮からであると推測され、右肩書が付されていることから本件墓地の所有者が徳重区であるとすることはできない。

二  徳重区について

明治時代以降に存在していた徳重区は、遅くとも昭和になってから、村落共同体としての機能を喪失して完全に解体した。現在の徳重区は、昭和三〇年代以降に周辺の宅地化が進むにともなって、土地等の処分のために新たに設けられたものであり、従前の徳重区とは全く別個の団体である。したがって、仮に、本件不動産の所有権が従前の徳重区にあったとしても、現在の徳重区が本件不動産の所有権を有するものではない。

(被控訴人の認否及び反論)

控訴人らの主張はすべて争う。本件不動産は、江戸時代から存在した徳重村が維持管理し、明治以降の土地制度の整備改革の過程で徳重区に所有権が認められたものであり、現在でも徳重区がこれらをその所有に属するものとして管理している。また、徳重区の地域住民の自治団体としての本質は何ら変わってはいない。

第三 証拠〈省略〉

理由

一本件の当事者等について

現在の徳重区が権利能力のない社団に該当し、被控訴人がその代表者であること及び控訴人らが、いずれも石松三次郎の権利義務を相続により承継した者であることについての認定判断は、原判決理由の第二の一、二に記載されているとおりであるから、これを引用する。

二本件不動産の所有関係について

1  本件不動産の登記簿の表題部の所有者欄に「大字徳重共有惣代石松三次郎、石松佐六、林榮次郎」の記載があることは、当事者間に争いがなく、〈書証番号略〉によれば、本件墓地の旧土地台帳の所有・質取主氏名欄にも同様の記載があることが認められる。

2  〈書証番号略〉並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができ、これを左右するに足りる証拠はない。

(一)  江戸時代には、領民の自治組織として町村が存在し、村では庄屋(名主)、組頭、百姓代のいわゆる村方三役が自治機関として置かれていたが、宗像郡徳重村もそのような村として江戸時代から存在し、庄屋、組頭等の自治機関が置かれており、控訴人らの先祖は、代々徳重村の庄屋を務める家柄であった。

(二)  本件ため池のうち、原判決別紙物件目録①、③、⑤、⑥、⑬は、江戸時代から存在し、いずれも官費で築造されたものであり、徳重村の庄屋及び組頭は、天保三年六月に、同目録⑥の葉山のため池の堤の普請を黒田藩に陳情し、天保五年三月までに堤の修復を終えたことを示す修理の記録が残されている。

(三)  明治維新後、明治新政府は、廃藩置県を始めとする地方自治体の改編を進め、明治二二年には市制町村制が施行されたが、その際、徳重村は、石丸、赤間、陵厳寺、三郎丸、土穴、冨地原、名残、田久の八か村と合併して赤間村(明治三一年に赤間町となる。)となり、これにより、従来の徳重村は、赤間村(赤間町)の一部である大字徳重となった。そして、右の市制町村制の施行に至る過程において、明治九年一〇月一七日太政官布告第一三〇号「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功規則」は、旧来の町村に対し財産権の主体としての地位を与えていた。

(四)  現在の徳重区には、明治三四年四月と明記された「徳重区基金台帳」と題する文書が保管されており、この文書に原判決別紙物件目録①の佛租のため池が徳重区の財産として登載されている。また、徳重区には、明治四三年二月起との記載がある「共有山林基金台帳徳重区」と題する文書や大正三年、昭和三年、昭和一〇年、昭和一九年、昭和三一年の各集会評議録も保管されている。

(五)  明治以降に作成された「佛祖溜池水下現反別書抜帳」と題する文書には、右佛祖のため池を利用している者の氏名及び耕地の面積が記載され、その中に石松三次郎及び石松佐六の名があるほか、同ため池の修繕費を、同ため池の利用者が二分の一、徳重村の土地所有者全員が二分の一の割合で、いずれも所有する土地の面積に応じて負担したことが記載されている。

(六)  原判決別紙物件目録①、②、③、⑤、⑥のため池は、現在もため池として利用され、同目録⑦、⑨、⑪の墓地は、現在も墓地であり、徳重区内の三輪一族、林一族や氏名不詳の者の墓石等が設置されており、これらはいずれも徳重区が管理している。同目録④のため池は、既にため池ではなくなって雑草等が生い茂った状態になっているが、管理は徳重区がしている。同目録⑧の墓地は、昭和三三年に徳重区が訴外岡本正夫に使用を認めて現在耕作地として使用され、同目録⑬のため池は、一〇年位前から徳重区がうどん店に駐車場として賃貸し、賃料を収受している。また、同目録⑩の墓地は、昭和四四年に徳重区が国に売却して現在国道三号線の道路敷となっており、同目録⑫の墓地は、昭和三四年に徳重区が訴外宮本秀臣に売却して宅地となっている。

3  右1、2の事実によれば、江戸時代に存在した徳重村は、少なくとも本件ため池の一部を普請するなどしてこれを維持管理し、明治以降の地方自治制度の改編にともない、徳重村は地方公共団体の一部である大字徳重になったが、その地域住民の自治組織として徳重区が存続して現在に至っており、本件不動産は、明治以降、右徳重区が維持管理してきたものであるということができる。これらのことからすると、本件不動産の旧土地台帳及び登記簿の所有者を示す欄に「大字徳重共有惣代」との肩書が付されて石松三次郎等三名の氏名が記載されているのは、明治以降の土地制度の改革により、土地についての近代的所有権が確立する過程で、本件不動産が、大字徳重の地域住民の自治組織である徳重区の所有(構成員の総有)に属することが認められた結果、旧土地台帳にその旨を表示する趣旨で右の記載がされ、その記載が登記簿に引き継がれていったものと推認するのが相当である。

4  右に関する控訴人らの主張について判断する。

(一)  控訴人らは、藩政時代に本件ため池を築造し、維持管理していたのは控訴人らの祖先を含む高持百姓であり、井組又は怱と呼ばれる高持百姓の集団が、明治以降に本件ため池の所有権を黒田藩から承継した旨主張する。

〈書証番号略〉によれば、近世の農民は耕地を所持する高持百姓とこれを所持しない無高百姓に大別され、近世の農村は高持百姓のうちの本百姓を中心として成立していたことが認められ、また、明治以降の文書に、佛祖のため池の修理について、徳重村の土地所有者が面積割合によって修理費用を負担したことを示す記載があることは前記2、(五)で認定したとおりである。

しかし、右の事実は、耕作地を所持又は所有していた高持百姓が、ため池についても維持管理の中心となっていたことを示すものとはいえても、これらの事実から、直ちに、控訴人ら主張のように、明治以降に本件ため池の所有権を承継したのは高持百姓の集団であると認めるには十分でない。前記のように、本件ため池の大半は、現在でも徳重区内の住民のためのため池として存在し、登記簿に記載された石松三次郎等三名の子孫がこれを管理していることを認めるに足りる証拠が全くないことからしても、明治以降に本件ため池の所有権を認められたのは大字徳重に居住する住民の自治組織である徳重区であったというべきである。

(二)  次に、控訴人らは、本件墓地について、藩政時代から本件墓地を所持していたのは控訴人らの祖先を含む高持百姓であり、明治時代に作成された墓地取調簿に、持主として特に肩書を付されない石松三次郎等三名の記載があることなどから、本件墓地は、明治以降に右墓地取調簿に持主として記載された石松三次郎等三名の高持百姓が所有権を取得した旨主張する。

〈書証番号略〉によれば、明治三二年九月更改との記載がある「宗像郡徳重」の「墓地取調簿」と題する文書には、本件墓地がいずれも廃止墓地に分類され、持主として石松三次郎、石松佐六、林榮次郎の三名が記載されており、この氏名に共有惣代等の肩書は付されていないこと、右文書で廃止墓地に分類された本件墓地以外の墓地には、現在個人所有として登記されている土地が存在すること、以上の事実を認めることができる。

しかし、藩政時代に、控訴人らの祖先を含む高持百姓が本件墓地を所持していたことを認めるに足りる証拠はなく、また、右墓地取調簿の作成者及び作成経過の具体的詳細な内容を明らかにする証拠もないのであって、既に認定したように本件墓地の半数は現在も墓地として使用されていること及び法的根拠及び作成者等が明確な旧土地台帳及び登記簿の記載と対比して、右墓地取調簿の記載がより正確に本件墓地の権利関係を表しているものと解することはできないことなどを考慮すると、右認定の事実は、本件墓地の所有権が石松三次郎等三名の高持百姓にあったことを裏付けるに足りるものではなく、これによって前記認定は左右されない。

(三)  更に、控訴人らは、現在の徳重区は、明治以降に存在していた徳重区とは全く異なるものである旨主張するが、既に認定したとおり、徳重区は、地域住民の自治組織として従来から存在し、現在の徳重区には明治時代からの徳重区の基金台帳等が保管されているほか、大正年代以降の集会の評議録も存在していることなどからすると、現在の徳重区と明治以降に存在していた徳重区には連続性があると考えられ、これらは同一の組織であると認めることができる。したがって、この点に関する控訴人らの主張も採用することができない。

三結論

以上によれば、本件不動産(原判決別紙物件目録⑩及び⑫の土地を除く。以下同じ。なお、同土地に関する請求については、本件において不服申立がないから、判断の対象としない。)は、権利能力のない社団である徳重区の構成員の総有に属するものであるということができる。

そして、本件において、被控訴人は、徳重区の代表者としての資格に基づき、個人名義で本件不動産について所有権保存登記をするために、本件不動産の所有権の確認を求めているところ、社団構成員の総有に属する不動産は、右構成員全員のために信託的に社団代表者個人の所有とされるものであるから(最判昭和四七年六月二日民集二六巻五号九五七頁)、代表者は、右の趣旨における受託者としての地位に基づき、社団の構成員の総有に属する不動産について、所有権の確認を求めることができると解するのが相当である。

そうすると、控訴人らに対し、本件不動産の所有権の確認を求める被控訴人の請求は理由がある。

よって、右請求を認容した原判決は正当であり、本件控訴は理由がないから棄却することとし、控訴費用の負担について民訴法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官権藤義臣 裁判官石井義明 裁判官寺尾洋)

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